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2011.05.12 自分とは
よく、「どうして部活やサークルに入らないの?」なんてことを聞かれたりする。

そうは言われても、別段部活とかでやりたいことがあるわけでもなく、
入ってあれこれ面倒くさいだろうなーと、ものぐさな僕はつい考えてしまう。

実際サークルとかに属している友達なんかは、
「楽しいけれど人間関係とか苦労する」とかこぼしたりしている。

別に必ず入らなきゃいけないわけじゃないんだし、
特にやりたいことがないのに、わざわざ面倒事を背負い込まなくたっていいじゃないか。


そもそも僕はどうやら、一人でいる、ということが好きな性分らしい。

みんなでわいわい楽しくやるのが嫌いというわけでは、もちろん無いのだが、
みんなで飯を食ったり話をしてたりする中でも、
ふっ、と周りから浮いて自分の中であれこれ考えが始まってしまう。

みんなが楽しくやっている中でも、なんとなく自分だけが醒めているような感じがして、
周りに安易に溶け込めない、ということは言えるかも知れない。

これは周りと仲が良いかどうかとかは関係なくて、仲の良い友達でも、家族の中にいても、
ずーっと一緒にいると自分の中で考えが始まって、無性に一人になりたくなるのである。


だから、何かに所属するよりも友達同士の不即不離の関係が気楽でいい、と答えると
「何かに属していないと不安じゃないか?」なんてことをまた聞かれる。

曰く、周りに人がいて、人と喋ってないとなんだか不安になる。
多分新入生で部活やサークルにみんなが入ろうとするのは、一人になりたくないからだと思う、とのこと。


自我の発達というものは、そもそも他人無くしてあり得ない。

幼児の自我の発達というものを、簡単に言えば、
「ママがいて、パパがいて、おもちゃがあって」といろいろなものと、それぞれの違いを知った結果、
「あ、自分がいるな」ということである。

周囲の一つ一つのものを見て、それぞれがお互いに違う別のものだということを認識して、
それからそうした周囲のものとの関係性の中で自分を位置づけることで、
初めて自意識が芽生えるのである。

それはちょうど、鏡を使わずに自分の顔を見ることができないのと同じことで、
他者という鏡なくして、自分という存在を認識することは不可能なのである。


だから「自分」というものを考えるときに、他人という存在は欠かせないのではあるが、
しかしだからといって、他人との関係が無いと不安で寂しいというのはおかしいのではないか。

彼らは自我を確立出来ていない子供ではなく、そういう所をすでに通り越した存在であるはずである。
他人と関わろうが関わるまいが、自分の存在はもう確立しているはずではないか。


しかしどうも多くの新入生がそうではないらしい。

みんな「他人との関係性の中で自分を位置づける」ということに頼り切っているから、
他人との関係が絶たれた時に、自分というものを見失ってしまうらしく、
だからこそ故郷を離れて一人になった新入生の多くが、
新たな関係性の中で自分を位置づけることを求めて、何かの組織に所属しようとするのである。


正直な話、僕なんかも入学当初は不安で仕方なかったりしたが、
それはどうも大学生活や一人暮らしなど、この先やっていけるだろうかという将来への不安であって、
一人でいることが不安だったとか、寂しいということは今思い返してみても無かった。

だから僕は別段、部活やサークルに入ろうともしなかったし、積極的に友達をつくろうともしなかった。
以前、友達ができないならできないでいいと書いたが、
そんな風に、友達を作ることを特に意識せず、自然に友達はできていった。


なぜ僕は一人であることが不安でなかったのか?

それは皆のように「他人との関係性の中で自分を位置づける」だけでなく、
「自分と向き合って、自分で自分を規定する」ということをしているからであるらしい。


自分と向き合い、自分で自分を規定するとはどういうことか。

うまく説明できないが、それは自分と向きあって、自分と「互いに」会話するということだと思う。
自分とは何か、ということを自分で自分と一緒に考えてみることだと僕は思う。


自分とは何か、という問いに対して、よく見られる答えは、
例えば、日本人であるとか、学生であるとか、性別であるとか、名前であるとか、そういったものが多い。

しかし、そういったものはあくまで自分に付随する属性に過ぎず、
そういった属性で自分を位置づけるというのは、
例えばGoogle検索機能でいろんなキーワードを入れて、検索をするようなものであって、
そうした属性を全部集めて、自分一人しか指せなくなったとしても、それは自分を指し示しているだけで、
属性の集合体がすなわち自分である、という風にはならない。

だってあなた、そんな属性をすべて集めたものを指して、
「あぁ、これは自分のことを指しているな」とは言えても、「あぁ、これは自分だ」とは言いませんでしょう。


自分とは何か。

それは簡潔に言えば、自分が自分だと思っているもの、それが自分である。
自分とは何か、という問いを自分自身に問いかけている自分、それが自分である。
名前だとか、日本人だとかは、自分がたまたまそういう属性を持っているというだけで、
自分の本質とは関係がない。

そして自分が自分だと考える自分は、たった一人しかいない。
ある人を見て、「あぁ、あの人は私と同じだな」と思うことはあっても、
「あぁ、あの人は私だな」と思う人はいない。

自分にとって自分という存在は、その意味で最初からかけがえのない唯一特別の存在なのである。


そんな風に考えたとき、僕は「みんなと違うと不安」だとか、「一人でいると不安でしょうがない」とか、
「流行に乗り遅れたくない」とか、「変な奴だと思われたくない」とかいったことを思わなくなった。

「みんなと違うと不安?
 しかしそもそもこの世界に一つとして同じものはないじゃないか。
 ひとりひとりの人間は最初からそれぞれ違った存在じゃないか」


「一人でいると不安でしょうがない?
 そもそも一人で生まれてきて一人で死んでいくのが人生じゃないか。
 
 それに僕は自分が自分だと考えている自分が自分だ、という自分のあり方よりも、
 他人とか組織とかとの関係性の中に自分というものがある、という自分のあり方の方が不安を覚える。
 
 なぜなら自分にとって自分というものは、
 勝手に消えてなくなったりしない、絶対確実な存在であるのに対して、
 他人や組織といったものは、あったりなかったり、中身が変化していく、不確実なものだからだ。
 
 現にあなたが一人でいることに不安を感じている状態があるってことは、
 他人や組織の存在はあなたの存在をいつでも保証してくれるものではないっていう証拠じゃないか。

 だから、あなたが自分というものを、外のものに頼らずに自分ではっきり認識できたならば、
 そんな悩みを抱くことはないのではないか」


「流行に乗り遅れたくない?でもあんなものは世の中にあわせてどうせ変化していくものなんだから、
 乗り遅れようが遅れまいがいずれ消え去るものじゃないか。
 そんなものに振り回される必要はないじゃないか」


「変な奴だと思われたくない?
 でも人はそれぞれ違っていて変わった存在だし、そうであるから人は面白いんじゃないか。
 
 それに人を変な奴だと判断する基準は、
 その人の価値観であったり、世間一般の常識だったりするけれど、
 それらはやっぱり、絶対の基準じゃなくて変化していくものじゃないか。
 
 他人が自分をどう思おうと、自分が自分であることに変りないし、自分の存在は揺らがない。
 揺らがないはずの自分を、変だと思われたくないからと無難な自分に変えようとするのは、
 変じゃなかろうか。」


後付けていろいろ考えてみるに、どうもそんな事を僕はぼんやり考えてるらしい。

これって変な考え方なのかな。
僕なんか、ああいった事で思い悩んでいる方がよっぽど変に思えるんだけどね。

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友達がいなくて寂しい、なんて話はよく聞くけれど、いないならいないでいいんじゃないか。

とりあえず寂しい気持ちを紛らわすために、無理につまらない友達と過ごすよりは、
一人自分と対話してる方がずっと楽しいことではないだろうか。

僕は「孤独を愛する」ことは大事な事だと思う。
そう言うとどうも僕がまるで、寂しい人間のように思う人がいるけれど、孤独であることと寂しいことは違う。
孤独を愛するとは、自分を愛するということである。
自分を愛するとは、自分自身があるがままの自分を受け入れ、自分自身と対話することである。
自分とは、自分にとっての大事なこと、深い深い問題について、どこどこまで付き合ってくれる、
最良のパートナーでもあると、僕は思う。

そもそも自分さえ愛せない人が、他人を愛することがどうしてできるのか?
「自分自身は嫌いだけど、(家族愛とか友情とかひっくるめて)愛している人はたくさんいるよ」って
言う人もいるかもしれない。
けれど、それは心から愛していると言えるだろうか?

さっき僕は自分を愛するとは、あるがままの自分を受け入れることだと言った。
自分と他人との関係の中で、愛し愛されるのはもちろん自分と他人である。
だとすれば他人を愛し、他人から愛される自分を、自分自身が受け入れなかったら、
人を愛することはできない。
なぜなら、「愛し愛される自分」を自分自身が拒絶してしまっているからで、
それは人を愛することも、人に愛されることも拒んでいることになる。

だから自分のことは嫌いだけど、愛している人はいるって人は、
いやいやながら結局は自分を受け入れているか、本当に愛しているわけではないかのどちらかだ。


僕は愛するとは、「対象を無条件で受け入れること」だと思う。
だから、相手を目的のための手段、という条件付きで付き合うというのは、
本物の関係では無いと思っている。
きっかけはともかくとして、「お金回りがいいから」とか「寂しさが紛れるから」「彼女が欲しいから」とか、
ただそれだけでくっついているのは、ただの損得関係だと思う。

本当の友情、本物の友達とは、そういった打算とは無関係に、
相手を受け入れることができる相手のこと。
打算とは無関係だから、お互いがお互いに大事だと思うことをじっくり話し込めることができる関係。
もしあなたがそんな相手に出会えたならば、その人は今まで対話してきた自分に代わる、
最良のパートナーとなるだろう。

よく友情が壊れた、愛が壊れたなんて聞くけど、本物の愛は壊れない。
なぜならお互いがお互いに相手を無条件に受け入れているのだから、
「自分と相手」という関係さえあればよく、貧しくなろうが病気になろうが死別しようが、
「自分と相手」という関係は少しも揺らがないのだから、壊れることはない。
壊れた愛や友情というのは、どこかで打算の働いている、
所詮いつかは壊れるものだったということであって、くよくよ悔やむようなことではない。


孤独を愛し、自分を愛し、自分自身を受け入れ、自分にとって大事なことを深く話しあうこと。
まずそれが大事なのであって、他人の評価なんて気にすることはない。
自分が自分を肯定できているのなら、他人に悪く言われてもどうということはない。
逆に自分が自分を許せないのなら、他人がなんと褒めようと許してはならない。
自分を愛すること、大事にすることとは、決して自分を甘やかすことではなく、他人に流されないことだ。



2011.03.17 心の反射
被災者以外の、多くの人にとっては、今回の大災害は所詮他人事なのかも知れない。
少なくとも、全人類にとってのそれは、実体験をともなう悲惨な災害というよりも、
傍観者として、ちょうど映画の一場面を見ているような感じがするのではないか。

もちろん、そんなことは不謹慎であるから、皆ことさらには言わないし、
表では応援メッセージを送ったり義援金を送ったりはしている。
しかしその本音はどうなのか?
そんな冷めた見方をする人もいる。


そういう風に考える人が、偽善だなんだとつぶやいたり、被災地域の人々を煽ったり、
愉快そうに眺めていたり、自分が何をしたってしょうがないと思って、関心を払わなかったりする。


僕はそういうのは大嫌いで、そんな事を考えるのは、
心にある種欠陥があるんじゃないかとすら思っている。
あの災害を見れば、普通、多少なりとも心が動くものだと僕は思うし、
もし動かなければその人は感受性が乏しいのではないか。
パニックになれだとか、今すぐみんなで救援に行けだとか、そこまで思ってはいないけれど、
痛ましさや同情といったものを感じるのはまっとうな感覚だと思う。


僕は皆に募金を薦めたり、皆に応援メッセージを書くよう薦めたりはするつもりはない。
それは個人の自由な意志で行うべきことであって、
誰かが書けと言うから、応援メッセージを書くというのは正しくないし、
なんのありがたみもない。
けれど、この災害について関心を持ち続けてほしい。

冷たい人間とは、自ら関わろうとしない人のことである。
所詮無駄だと諦めて何もしない、それは冷たい人だ。
普通、あの災害を見て、被災者の状況を知って、彼らの苦境、心情を思いやれば、
偽善だなんだと非難したり、所詮無駄だからと諦めるよりも先に、
自分に出来ることは何か、そう考えるものだ。

別に大したことができなくてもいい。
自分に出来る事をすればいい。
出来ることが何も無いなら、それでもいい。せめて祈ろう。
想いが力に、なんてオカルトな話は信じちゃいないが、それでも祈ろう。
人の不幸をあざ笑うのは、卑しいことだ。
卑しいことをして自分を貶めるよりも、せめて他人のために何かをしよう。

今あらためて思うと、僕にとって今回の災害は、
その人が温かい人間か、冷たい人間かを区別する、リトマス紙のような働きもあった。
巨大な不幸を目の当たりにして、あなたはどう思ったのか?
僕は冷たい人間であるよりは、温かい人間でありたい。
命は大切なものであり、かけがえのないものであり、尊いものであるが、
少なくとも人間は、その命をただ全うするためだけに生きているのではない。

命は目的ではなく、手段でなければならない。道具として使うものでなければならない。
もし、命を養うこと=生きる意味であるならば、食べて寝ること、
ただそれだけですべての人は尊い存在であるし、
それこそ植物人間状態の人も、人間らしい生き方をしていることになる。
けれど、人間らしい生き方とか生きる意味とかは、そういう生活の中にはないだろう。

命は尊いものだが、人間にはより尊いものがある。
それはその人の精神だ。
自分自身の精神は、自分自身にとって何よりも尊い。
なぜなら何が尊いものであるかを判断するのは、その人の精神であり、
もし精神がなければ命の価値について考えることもできないからだ。

動植物はいざ知らず、人間にとっての命とは、自らの精神のために使う道具でなければいけない。
ただただ命が大事、生きてりゃそれでいいというのは、
物そのものを目的とする、「物神化」に他ならない。
そういう、精神性よりも命を尊ぶ生き方、考え方は、動物となんら変わらないものであり、
人間の尊厳を傷つけている。
もしもあなたが、日頃命さえあればそれでいいと思っているのならば、
それは自分で自分の価値を動物と同じレベルに貶めていることになる。

ここまでで書いた命とは、自分の命のことである。
自分の命は、より尊い精神性のために使う道具でなければならない。そう書いた。
しかし他人の生命を手段として扱うこと、これは絶対にいけないことである。
他者の命は手段としてではなく、目的として扱う。それは他者の命を尊重する、尊ぶということに繋がる。
自分の命と他人の命とでは、意味合いも扱い方も大きく違っているのだ。
自分の命と他人の命は違うこと。これに気づいていない人は結構多い。
もしもテレビなんかで「命は?」という話がでてきたら、それが自分の命なのか他人の命なのか、
それとも命という概念そのものの話なのか、注意して聞いてみると面白い。

命を自分の精神のために使う。
これはいざという時には、命を投げ出すことも含んでいる。
しかしだからと言って、軽々しく命を投げ出せと言っているわけではない。
大事なのは自分の精神性を全うして死ぬことであって、ただ死ねばいいというものではない。

死ぬこと、それ自体はある意味では誰にだって出来る事であって、すごい事でも何でもない。
例えば侮辱、屈辱を受けたから死ぬというのは間違っている。
もし本当に自分の精神を大事にしているのであれば、自分で自分を尊ぶ心、自尊心があるはずだ。
自分で自分を尊ぶことができるのならば、他人に何と言われようと恥ずかしく思うことは無いはずだ。

自分の命は大切なものだ。しかしそれはかけがえのない、道具としての大切さだ。
道具を大切にするあまり、いざという時に使えないというのでは話にならない。
本当に自分を大切にする人は、いざという時には命を無造作に放り出すものだ。
それは一見自分を大切にしていないように見えるが、命よりも精神性が大事だと知っているからなのだ。
理系→事物、事象の観察、解明、技術の発見、応用、発展、拡充を目指すもの

文系→概念、観念など目に見えないものの意味を問うもの

そんな風に考えている。
文系は理系に比べてどうだの、理系はああだの言うけれど、
本質的に両者がやっていることは全く別だから比較するものじゃない。
だいたい文系は理系が発見した内容をネタに議論したりするし、議論に使う論理自体が理系的なもの。
理系の方も作り上げた技術をどう使うか、という所で文系的なことを考えなきゃいけない。
だから文系も理系も相身互いで、どっちか一つだけが分かればいいってもんじゃない。
必要に応じて両方を応用できないといけないものらしい。


19世紀末?20世紀初頭にかけて、科学技術が大発展。
それを見た文系の学者さんたちが
「今の文系には進歩がねぇ!理系のやり方を取り入れようぜ!」ってことでいろいろやってみたんだそうな。

「理系は1なら1、H2OならH2Oと、一つ一つの定義がはっきりしてる!
 俺達も個々の言葉の定義を明解にしたうえで議論するべきだ!」
ということで早速やってみたはいいものの、
「自分」とか「人生」とか「生」とか「死」とか「心」とか、
基本的なものの意味の解釈が分かれて定義できず、企画倒れに終わったそうな。

結局文系がやってることは、不確かなものの意味を積み重ねるという作業だから、
理系に比べて進歩も遅いし、パッとしないけれどそういうものだから諦めよう。
そういう結論に落ち着いたそうな。


今ボーノさんが山口に来てる模様。午後3時から試験らしい。
どうせ今はこのブログを見ている暇も無かろうし、今更言う事でもないから、応援メッセージは書かない。
天気が良くてよかったね。


あと血管、カウンター設置ありがとう。
思った以上にカウンターが回ってて正直おどろいてる。
もうすぐ3桁突入ですよこれ。
一人当たり一日一回で回ってるみたいだから、更新ボタン連打ってわけでもなさそうだし。
とりとめもない中身だけれど、今後も続けて書いていこうかな。
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