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ボーノ!お久しぶりです。試験が終わった後更新がないから「あぁ、こいつ落ちたな」って思ってたろ!
だがッ無事山口大学に合格しましたァ!
現在大学内の寮に住んでおります(今日から)

メイプルは地震の関係でできないようですね
いずれにしろ春は忙しい人が多いかな?
またギルクエしたいですな( ̄▽ ̄)
主催はラペス…頼みますよ!
では携帯から失礼しましたまだネットが繋がらないんで…
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2011.03.17 心の反射
被災者以外の、多くの人にとっては、今回の大災害は所詮他人事なのかも知れない。
少なくとも、全人類にとってのそれは、実体験をともなう悲惨な災害というよりも、
傍観者として、ちょうど映画の一場面を見ているような感じがするのではないか。

もちろん、そんなことは不謹慎であるから、皆ことさらには言わないし、
表では応援メッセージを送ったり義援金を送ったりはしている。
しかしその本音はどうなのか?
そんな冷めた見方をする人もいる。


そういう風に考える人が、偽善だなんだとつぶやいたり、被災地域の人々を煽ったり、
愉快そうに眺めていたり、自分が何をしたってしょうがないと思って、関心を払わなかったりする。


僕はそういうのは大嫌いで、そんな事を考えるのは、
心にある種欠陥があるんじゃないかとすら思っている。
あの災害を見れば、普通、多少なりとも心が動くものだと僕は思うし、
もし動かなければその人は感受性が乏しいのではないか。
パニックになれだとか、今すぐみんなで救援に行けだとか、そこまで思ってはいないけれど、
痛ましさや同情といったものを感じるのはまっとうな感覚だと思う。


僕は皆に募金を薦めたり、皆に応援メッセージを書くよう薦めたりはするつもりはない。
それは個人の自由な意志で行うべきことであって、
誰かが書けと言うから、応援メッセージを書くというのは正しくないし、
なんのありがたみもない。
けれど、この災害について関心を持ち続けてほしい。

冷たい人間とは、自ら関わろうとしない人のことである。
所詮無駄だと諦めて何もしない、それは冷たい人だ。
普通、あの災害を見て、被災者の状況を知って、彼らの苦境、心情を思いやれば、
偽善だなんだと非難したり、所詮無駄だからと諦めるよりも先に、
自分に出来ることは何か、そう考えるものだ。

別に大したことができなくてもいい。
自分に出来る事をすればいい。
出来ることが何も無いなら、それでもいい。せめて祈ろう。
想いが力に、なんてオカルトな話は信じちゃいないが、それでも祈ろう。
人の不幸をあざ笑うのは、卑しいことだ。
卑しいことをして自分を貶めるよりも、せめて他人のために何かをしよう。

今あらためて思うと、僕にとって今回の災害は、
その人が温かい人間か、冷たい人間かを区別する、リトマス紙のような働きもあった。
巨大な不幸を目の当たりにして、あなたはどう思ったのか?
僕は冷たい人間であるよりは、温かい人間でありたい。
命は大切なものであり、かけがえのないものであり、尊いものであるが、
少なくとも人間は、その命をただ全うするためだけに生きているのではない。

命は目的ではなく、手段でなければならない。道具として使うものでなければならない。
もし、命を養うこと=生きる意味であるならば、食べて寝ること、
ただそれだけですべての人は尊い存在であるし、
それこそ植物人間状態の人も、人間らしい生き方をしていることになる。
けれど、人間らしい生き方とか生きる意味とかは、そういう生活の中にはないだろう。

命は尊いものだが、人間にはより尊いものがある。
それはその人の精神だ。
自分自身の精神は、自分自身にとって何よりも尊い。
なぜなら何が尊いものであるかを判断するのは、その人の精神であり、
もし精神がなければ命の価値について考えることもできないからだ。

動植物はいざ知らず、人間にとっての命とは、自らの精神のために使う道具でなければいけない。
ただただ命が大事、生きてりゃそれでいいというのは、
物そのものを目的とする、「物神化」に他ならない。
そういう、精神性よりも命を尊ぶ生き方、考え方は、動物となんら変わらないものであり、
人間の尊厳を傷つけている。
もしもあなたが、日頃命さえあればそれでいいと思っているのならば、
それは自分で自分の価値を動物と同じレベルに貶めていることになる。

ここまでで書いた命とは、自分の命のことである。
自分の命は、より尊い精神性のために使う道具でなければならない。そう書いた。
しかし他人の生命を手段として扱うこと、これは絶対にいけないことである。
他者の命は手段としてではなく、目的として扱う。それは他者の命を尊重する、尊ぶということに繋がる。
自分の命と他人の命とでは、意味合いも扱い方も大きく違っているのだ。
自分の命と他人の命は違うこと。これに気づいていない人は結構多い。
もしもテレビなんかで「命は?」という話がでてきたら、それが自分の命なのか他人の命なのか、
それとも命という概念そのものの話なのか、注意して聞いてみると面白い。

命を自分の精神のために使う。
これはいざという時には、命を投げ出すことも含んでいる。
しかしだからと言って、軽々しく命を投げ出せと言っているわけではない。
大事なのは自分の精神性を全うして死ぬことであって、ただ死ねばいいというものではない。

死ぬこと、それ自体はある意味では誰にだって出来る事であって、すごい事でも何でもない。
例えば侮辱、屈辱を受けたから死ぬというのは間違っている。
もし本当に自分の精神を大事にしているのであれば、自分で自分を尊ぶ心、自尊心があるはずだ。
自分で自分を尊ぶことができるのならば、他人に何と言われようと恥ずかしく思うことは無いはずだ。

自分の命は大切なものだ。しかしそれはかけがえのない、道具としての大切さだ。
道具を大切にするあまり、いざという時に使えないというのでは話にならない。
本当に自分を大切にする人は、いざという時には命を無造作に放り出すものだ。
それは一見自分を大切にしていないように見えるが、命よりも精神性が大事だと知っているからなのだ。
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